先週、母校で教育実習に従事している、教え子のN君に会いに、山形県小国町の基督教独立学園高校を訪問してきました。
そこには、生徒と教員が力を合わせて、牛を飼い、畑を起こし、山から自然の恵みをいただき、青春の苦楽をともにする姿がありました。
訪問記、すぐに書きたかったのですが、心がまとまらず、書くことができませんでした。感動した心が、熟成するのを待つ時間が必要でした。
高校の卒業生である、N君は、理科の授業をおこないました。
生徒たちと円滑なコミュニケーションが取れており、にこやかかつ活発な授業が展開されていました。
生徒と教員が、双方向で、発言しながらの授業風景、大学生では失われつつある光景に新鮮な驚きを感じました。
授業の後に、牛舎や農場を案内していただき、昼には、生徒が摘んできたワラビの入った炊き込みご飯をいただきました。製パン部の部員たちが、石窯で焼いた、パンもおいしかったです。
労働の大切さを重んじる校風が、敷地内の随所に見て取れ、我が子にも経験させたいと、ため息が出ました。
進路指導の先生との面談では、卒業の言葉の書かれた、文集をいただきました。
卒業生する生徒たちが、自分たちの3年間の思いを、綴っているのですが、最初の数人のメッセージを読んだだけで、心が打ちのめされました。
入学当初、彼らの多くは、プライドという鎧が、かっこ悪い自分をさらけ出すことを邪魔してしまい、他者との真の交わりを恐れていました。
ですが、3年間の協同生活で、自分を見つめ続け、他者から愛情を受け続ける中で、徐々に自尊心という、こわばりがほどけ、柔らかい心の芽が、土の中から顔を出していく様が、表現されていました。
高校の敷地内を、清流が流れていましたが、その水のように澄んだ心のメッセージが、文字になってあふれ出ていました。
「他者の声なき声を想像し、聞き、自らの呻きを発したい」
「たくさんのありがとうが僕の胸から溢れてきます」
「「誰かのため」ではなく、「誰かと共に」生きて下さい」
「あなたの望む姿に応えなければ捨てられると思っていた。人が心に入るなんて事がまったく分からなかった」
「3年の時が過ぎ、やっと分かったことは、以下に自分が無知で無力であるかということくらいです。本当に小さくてみじめに思えるかもしれませんが、私にとっては精一杯の気づきでした」
このような、透明な言葉が、卒業生全員から発せられていることに、私は絶句しました。
私は、18歳の若者から、深い感動と気づきを受け取りました。