おばんです。
ちょっと古いですが、教育テレビの「ウワサの保護者会」という尾木ママと子育てママの座談会形式の番組が放映されていました。
テーマは「自分で勉強する子に育てたい」(2017年4月8日(土))というものです。
テーマがテーマだけに、妻と中2の長男も呼んで3人での視聴です。
我が家も息子にどうやって自発的に勉強してもらえるか四苦八苦していますが、番組では子供に付きっきりで勉強を教えているお母さんが登場していました。
詳しくは省略しますが、あの手この手で勉強を「教えよう」とする熱意にびっくりしました(「教えよう」とするというのがポイントです、「させよう」というのではありません)。
登場していたご家庭・・・
子供まったくやる気なし→お母さん焦る→お母さんが手取り足取り鬼家庭教師のように勉強を教える→子供ますますやる気なくなる・・・
といった負のスパイラルです。
あの番組に出演していたお母さんたちは本州で、中学受験なども当たり前のシビアな環境なのでしょう。北海道はそこまでキリキリしてはいないですが、それを割引いても、お母さんたちの焦りは観ているこちらに伝わってきました(我が家はのんびりしすぎなのかな。。。)。
↓3月に長男といった江戸東京博物館で、「戦時下の子どもたち」という特集展示をやっていました。実在した10人の子どもたちが紹介されていました。疎開や勤労動員で勉強どころではなかった様子が展示されていました。同じ日本人なのに学びたくても学べない時代もあったのです。
↓レイさんは風船爆弾を作る工場で毎日勤務。高等小学校2年生なのでおそらく11歳。
私は今、意欲的な若手獣医師のグループに招かれてウシの栄養学についての勉強会で講師を務めています。彼らは自ら会費を払ってまでも、学びたいという思いがあり、私もそんな熱い想いに応えようと情熱を傾けています。
そんな彼らですが、栄養学の講義は学生時代もあったはずです。はっきり言ってしまえば、その時にしっかり勉強しておけば、わざわざ今やらなくても良いでしょう。しかし、そのときの彼らにとって栄養学は「学びたい」科目ではなく、やらされている感が満載のつまらない講義の一つに過ぎなかったのでしょう。
社会に出てから勉強が楽しくなる。
このような経験は大人になっていく中で誰しも経験しているのではないでしょうか。
昨日のセミナーは土日丸つぶれの学習会でしたが、私を含めてみなさん超熱心に受講していました。
自発的にやる勉強は楽しいのに、やらされる勉強はつまらない
やらされる勉強は、なんだかんだ理屈をこねては逃げようとする。
尾木ママは、努力の過程を褒めてあげてくださいと語っていました。そして、親が子をかまい過ぎないことも大切と言っていました。
出演者の一人は、猛烈教育ママだったのを、あるときに気づいてスパっとやめたそうです。進路も含めて子供の人生だから、受け入れる、あきらめる、とのこと。
言うのは簡単ですが、ここまで達観するのは相当の覚悟がないとできません。
私もこの頃はよく思います。
自分が気づくしかないのだと。
気づく年齢が若ければ若いほど、その後の人生も豊かになることでしょう。
気づける人と気づけないまま歳を浪費してしまう人、この違いは家庭の環境もさることながら、その人の持って生まれた「業(ごう)」にあるのかもしれません(使い方が間違っていたらゴメンナサイ)。
きっと、親は子の「業」を変えることはできないのでしょう。日々の生活を通して、少しだけ影響を及ぼすことができるだけなのかもしれません。
気づきのきっかけを提供してあげられるだけ、というか。
親が子の尻をたたいて勉強に向かわせるのもアリですが、一体それをいつまで続ければよいのでしょうか。高校受験が終われば、大学受験、大学受験が終われば、就活、そして結婚、これら人生の節目で親がいつも方向を決めてあげなくてはいけないのでしょうか。ゴールのない二人三脚は果たして子にとっても幸せなのかな。
学習や学びについて、こんなことを最近は考えるようになりました。
・・・なんてエラそうなことを書きましたが、我が家も悩みは番組出演者と一緒です(^^;)
妻は口うるさく指導する担当。私は人生論的なことを語って聞かせたり、勉強の過程を褒めてみたり、乗せてみたり、ときにカミナリ落としてみたり、ご褒美作戦をとってみたり、とあの手この手の搦め手で攻める担当。
ムスコ君よ、父と母は君の気づきの「時」を待っているよ??