今日の札幌は雨。
その分、猛暑も一段落です。
湿度は高いけど、気温低いのでとても過ごしやすく、妻も少し元気が戻りました。
心配なさってくれたnon46さん、アンディさんありがとうございます。
ついでながら、いつも拙文にお付き合いただ来ありがとうございます。
朝の茶碗洗いと掃除機かけを終え、私は妻の入れてくれたカフェオレを飲みながらのんびり朝刊を読み、妻と次男はひらがなパズルでお勉強です。
ふざけてばかりで全くはかどっていないようです(-_-)
今週末は連休なので、とてものんびりです。
週末は仕事をしないことに決めてから、平日の仕事に対する集中力・密度が高まりました。以前のように夜遅くまで、あるいは週末も仕事をしていた頃と比べても、仕事量は変わらないか逆に増えているかもしれません。
時間管理術、優先順位をつけての仕事への取り組み、そういった人生を豊かにするためのワークライフバランスに気づけて本当に良かったと思います。
裁判所への期待と幻想
さて、日曜日の道新朝刊には書評コーナーがあり、それを読むのを楽しみにしています。
今週も興味深い新刊が何冊も紹介されていましたが、その中の1冊を紹介します。
「裁判所の正体」
評者はフリージャーナリストとの中村一成氏です。「強固な身分社会 人事で統制」というコメントが目をひきました。
「上ばかり見るヒラメの群れ、法服を着た悪人、裁判をやっている官僚」が裁判所の実情なのだそうです。「政府の「統治と支配」の根幹に関わる事案については「権力」の番人となり、後は「可能な限り」世論に迎合する。「統治と支配」に噛み付いた裁判官には「どこかの段階で」必ず制裁が加えられる。」
うーんとうなりました。
とういのも、私は離婚調停で裁判所を経験しているからです。
あのときの裁判所は、「子の親権=母親」という強固な固定観念をもって私の説得に当たってきました。俗な言葉で言えば出来レースをイヤというほど実感させられた苦い記憶がよみがえります。
裁判所にはケースバイケースで臨機応変に決断する姿勢が一切ありませんでした。
離婚の原因、子の監護者としての信頼関係、経験あるいはバックアップ体制、経済的状況それらを考えると、父親である私が親権者になっても何らおかしくはなかったと確信しています。
書評にあった「世論に迎合」するという言葉をみて、ぴったり当てはまると合点がいきました。私の出会ったわずか一人の裁判官と三人の調停員から決めつけることはしたくなかったので、これまでは一般化して話すことはしていませんでした。あの人たちが特別だったのかもしれませんから。
しかし、今日の書評を見ると、私が感じた「判決にはあらかじめレールが敷かれていて、それと異なる決断を下したくない人たち」という思いは、あながち外れていないのかもしれません。
調停が成立する最後の日、なおも食い下がろうとした私に対して裁判官は「じゃ調停はやめて裁判にするか」と恫喝するかのように吐き捨て、彼が持っていた書類を机の上に投げつけた雪深い日の屈辱がよみがえりました。