この週末、二つのドキュメンタリー番組を観ました。
全く境遇は違いますが、どちらも社会に居場所がないと感じて、苦しむ人たちを描いた番組でした。
一つは、中国残留孤児3世を取り上げた番組。
一つは、不妊治療で子宮移植の可能性にかける家族の物語。
前者では、祖父母(中国残留孤児1世)、両親(2世)が中国および日本でで苦しい日々を送り、3世である自分は、中国人なのか、日本人なのか、というアイデンティティに苦悩する現実が描かれていました。
NHKドキュメンタリー - ETV特集「わたしは誰 我是誰~中国残留邦人3世の問いかけ~」
後者は、不妊治療に苦しむ家族が、スウェーデンで実現している、子宮移植に一縷の望みをかけるという番組です。生まれついて子宮を持たない女性が、母や姉から子宮を移植してもらい、子を産むということがスウェーデンでは現実のものとなっています。
NHKドキュメンタリー - BS1スペシャル「母の子宮で子どもを産みたい」
どちらの番組でも、当事者は、出自や子を産めないことを隠したり、理解してもらえないことに苦しんでいました。
日本は「人と違う」と、生きにくい国です。
しかし、中国残留孤児3世がアメリカに留学した際には、そんな出自を何も恥じる必要はなく、多民族で大らかに生活できた経験が語れていました。
スウェーデンでは、不妊治療は全く後ろめたいことではなく、普通に語り合える話題だということでした。
レベルは全く変わりますが、私は実家がラーメン屋であることで、子供時代にはとても嫌な思いをしました。ラーメン屋というだけで、茶化されるので、それがとてもコンプレックスでした。
また、今でこそ大して気にしませんが、私は髪が薄く、おでこが広いという特徴があり、それもいじめの対象となっていました。
家業も、身体的特徴も、自分では選べないことです。
ですが、そのことで、日本社会では、茶化されます。
茶化すということ軽く感じますが、茶化された本人は、いじめられと受取り苦しみます。
それが、両親が中国語しか話せなかったり、自らが子を産めない身体であったりすることは、私などの比ではない苦しみを被っていたでしょう。
全く次元は違いますが、私も同様の経験をして成長してきたので、二つの番組が心に染みいるように感じられました。
世間の人と違うというだけで、苦しまなければいけない日本社会。
多様性を個性として、寛容に受け入れることは、難しいことなのでしょうか。