今日は町内会の夏祭りで焼き肉大会でした。
近所の公園で、普段顔を合わせる方、初めてお会いする方、大勢の人たちが楽しく焼き肉で盛り上がりました。残念ながら、私は夕方から卒論研究のサンプリングが牛舎であったので、途中抜けしなくてはいけずビールはお預けでした(^^;)
我が家のお隣さんとお向かいさんには、4歳の次男と同世代の子どもたちがいて、最近子供たち同士急速に仲良くなりました。今日の焼き肉にもお友達家族が来ていて、ご一緒させてもらいました。子どもが取り持つ縁で、夏祭りも楽しめました。
子はかすがい、こういった場面でも使える言葉なんですね。
満蒙開拓団の女たち
私たち夫婦は、晩酌にあわせての定番テレビ番組がいくつかあります。
「ガイアの夜明け」、「72時間」、そして「ETV特集」です。
昨日のETV特集は、極めて重いテーマで胸が苦しくなりました。
私は歴史が好きで、歴史小説やノンフィクションを読む機会が多いです。
満州からの引き上げや中国残留孤児の物語はいくつも読みました。
なかにし礼の「赤い月」、山崎豊子の「大地の子」などなど。
昨日のドキュメンタリーは、それら既存の物語では描かれることのなかった悲しい事実でした。
番組のHPから内容を引用します。
戦前、岐阜県の山間地から、旧満州(中国東北部)・陶頼昭に入植した650人の黒川開拓団。終戦直後、現地の住民からの襲撃に遭い、集団自決寸前まで追い込まれた。その時、開拓団が頼ったのは、侵攻してきたソビエト兵。彼らに護衛してもらうかわりに、15人の未婚女性がソ連兵らを接待した。戦後70年が過ぎ、打ち明けることがためらわれてきた事実を公表した当事者たち。その重い事実を残された人々はどう受け止めるのか。
(引用ここまで)
「接待」とは巧みな呼称です。
その実は、ソ連兵に性の道具として若い娘さんたちが自らの肉体を差し出すことで「接待」したのです。
当時の「接待」を経験した女性たちが告白しました。
15名の娘さんたちが、手を繋いで横になり、「お母さん、お母さん」と泣きながら、慰み者になったそうです。ソ連兵は銃の先で少女たちをいたぶったそうです。
17歳の妹の代わりにあなたの分もソ連兵を引き受けると言って、他の女性よりも数多く身体を差し出した21歳の姉。妹は、うがい薬を生理食塩水に溶かし、姉の子宮に管を挿入して毎日洗浄したそうです。性病や妊娠を防ぐためにです。
当時12歳の少年だった男性は、「客」としてソ連兵がやってくると、少女を呼びに行く役割を担っていたそうです。彼は「ちょっと待って」というロシア語を、戦後70年たった今でも覚えていました。
昭和20年10月に開拓団内に「接待所」が設けられ、翌年8月まで続いた。その間に4名の少女たちが亡くなった。生き残った女性たちも性病にかかり、子どものできない身体になってしまった方も少なくない。彼女たちの苦しみは筆や舌で表すことはできない。
開拓団の人たちも胸がかきむしられる思いで毎日を過ごしたことだろうか。少女たちの親兄弟はいかばかりの苦しみだったのだろう。
彼女たちの犠牲のもと、450人の団民が生きて帰国することができたそうです。
しかし、彼らの苦しみは日本に戻ってからも続きました。
「満州帰りにはろくな者はいない」という差別を受けるのです。開拓団の引き揚げ者たちは、ヒルしか住まないところから名付けられた「蛭が野」という未開地を開墾する生活を余儀なくされました。
生き残りの女性の息子が(彼にも重たいドラマがあります)、番組後半で語ります。
「みんな当事者で、みんな被害者だった」と。
番組中、私はソ連兵のひどさに憤りを感じました。
しかし、番組後、その憤りは、丸腰の開拓団民を置き去りにして我先にと逃げてしまった関東軍や国家というものへと変わっていきました。
と同時に、相手の身になって考えたときの、胸の重苦しさに絶句しました。
私がソ連兵だったら果たして敵国の娘さんを抱かずにいられただろうか?
私が開拓団に在籍していたとして、650人の総意で決まった意見に反して、娘を差し出さないことができただろうか。大勢の生死をかけた同調圧に流されたのではなかろうか。
ソ連兵が来たからといって、我が家から娘を送り出すときの親の気持ちはどのようなもので、帰宅する娘に対してどのような声をかけただろうか。
頭がおかしくなりそうです。
妻と二人、そんな番組を、昨夜は観ました。